休日の午後、鏡の前で髪を整える。
ブラウスのボタンを留め、スカートの皺を指でなぞる。
こうして外に出るたびに、胸の奥で小さく鳴る。
――“わたし”として生きている音。
ショッピングモールの吹き抜けを歩いていたとき、ふと見覚えのある横顔が視界をよぎった。
倉島 彩音
同じ高校の女子陸上部で女子キャプテン。誰に対しても明るく、今年の100mでインターハイに出場したらしい。
もし、自分が男でいられたら、自分もインターハイの舞台に立っていたのかな……
そんな取り返しのつかない“もしも”が胸をかすめて、少しだけ、昔の自分が恋しくなった。
倉島さんの隣には、見知らぬ女の子がいた。
細い腕を絡め、顔を寄せ合って笑っている。
近くで見なくてもわかる――恋人の距離だった。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
何に対してなのか、わからない。
嫉妬?それとも、憧れ?
倉島さんがその子を見つめる目が優しくて、痛いくらいに綺麗だった。
◆
気づけば、わたしは二人のあとを追っていた。
理由なんてなかった。
ただ、目を離したくなかった。
エスカレーターを下り、モールの奥へ。
二人は人込みへ入っていく。
わたしは少し距離を取りながら、こっそり覗いた。
倉島さんがその子の頬に触れた。
指先で髪をすくい、唇を寄せて囁く。
そして、スカートの裾に手を滑り込ませた。
――え……。
息が止まった。
女の子の肩がびくんと震え、短い吐息が漏れる。
倉島さんの表情は、何の感情も浮かんでいないかのように装っていた。
隣の女の子は頬を赤らめ、右手の人差し指を甘噛みして、声が漏れないように必死に耐えていた。
◆
心臓がドクドクとうるさい。
太ももがじんと熱を持つ。
(なに、あれ……)
呟いた声が、かすれて震えた。
見てはいけないのに、目が離せない。
あの子の震える脚。倉島さんの指の動き。
そのたびに、自分の中の何かが呼び覚まされていく。
触れられたい。
――わたしも、あんなふうに。
胸の奥で、はっきりとそう思ってしまった。
女の子の身体になってからは蓋をしていた、性的欲求。
いつの間にか、心のどこかで「求められたい」と願っていた。
その事実が、恐ろしくもあって、甘くもあった。
気づいたときには、ふたりの姿はもういなかった。
残されたのは、どこか甘い空気と、胸に残る熱だけ。
人混みの音が戻ってくる中で、わたしは小さく息を吐いた。
見てはいけないものを見た。
でも、目を閉じても、焼きついた光景は消えない。
◆
夜。
ベッドに座って、スマホを握りしめる。
部屋の明かりを落とすと、画面の光だけが頬を照らす。
倉島さんの名前が浮かぶ。
指先が勝手に動いた。
――どうして、こんなことをしようとしてるんだろう。
頭では止めようとしているのに、身体が言うことを聞かない。
男だったころの性欲が、女の子になった“わたし”の理性を飲み込んでいく。
『さっき女の子と二人で歩いてたよね?しかも倉島さんがその子のスカートの中に手を入れてまさぐってたよね……。その子も含めて三人で会いたいな』
送信ボタンを押した瞬間、心臓が焼けつくように熱くなった。
どうしてそんな言葉を打ったのか、自分でもわからない。
胸の奥がズキズキして、息が苦しい。
後悔と、少しの期待が入り混じる。
数分後、スマホが震えた。
倉島さんからの返信。
『高橋くん、見てたの?あれは……ちがうの。ごめんね、ちょっと説明が難しくて……』
文面が途中で途切れていた。
短い文章なのに、倉島さんの動揺が伝わってくる。
彼女の指が震えながら打ったような、そんな文字。
わたしも、なんだか怖くて返信できない。
わたしは鏡の前に立つ。
スカートの裾を指でつまみ、息を整える。
「……見てるだけじゃ、足りないの」
唇が微かに笑った。
鏡の中の女が、艶っぽい目をしていた。
スマホがもう一度だけ震える。
通知の灯りが頬を照らし、夜の静けさに溶ける。
画面には、倉島さんの名前。
その下に、たった一行のメッセージ。
『わかった。優斗くんにも聞いてみるね』
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
胸の奥がざわつく。
――優斗?
あの女の子の名前……?
指先が震える。
期待なのか、恐怖なのか、自分でもわからない。
ただひとつ確かなのは、もう後戻りできないということ。
わたしは、見てしまった。
そして、踏み込んでしまった。
禁断の関係の入口に……
※次回からは別のキャラの物語を投稿します
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