放課後、部活中のグラウンド。
遠くで野球部の掛け声が聞こえる。
「キャプテン、お疲れ様です!
「尚紀先輩、テーピング手伝いましょうか?」
汗を拭うたび、女子部員たちの視線がちらつく。
俺――高橋尚紀(たかはし なおき)は陸上部のキャプテン。インターハイ県予選まではあと二ヶ月。
怪我をしていなければ、いまごろ誰よりも走り込んでいなければいけない時期なのに……
「……ありがと。テーピングは自分でやるよ」
笑って答えながらも、内心は冷めていた。
『かっこいい』と言われるたびに、どこかむずがゆい。
俺が望んでいるのは、そんな言葉じゃない。
部活中、女子部員たちの姿を眺める。短いスパッツの上に揺れるランニングシャツの裾、絞られたウエストライン。
その向こう、校門を抜ける制服姿の女子がふと髪をかき上げる。
夕陽に透けるその仕草が、妙に眩しかった。
――どうして、あんなふうに生まれなかったんだろう。
焦りと羨望が胸の奥で混ざる。
怪我の痛みもさることながら、そっちのほうも苦しかった。
◆
夜、家族が寝静まった時間。お風呂に入り自室に戻ると、カーテンを閉めて鍵をかける。
クローゼットの奥の段ボール箱。
そこには、誰にも言えない「もう一つの俺」が詰まっている。
レースのブラウス。
ピンクベージュのサテンのスカート。
細いストラップのキャミソール。
袖を通すたびに、心が静かになっていく。
サテンの生地が肌に“きゅっ”と吸いつく感覚。
それだけで、ざらついた心が溶けていくみたいだ。
「……やっぱり、女の子の服を着ると落ち着くんだよな」
唇の甘い香りが、空気にふわっと広がった。
――だけど、本当は。
――服だけじゃ足りない。
指先で髪を撫でる。
触れるたび、胸の奥がちくりと疼く。
俺は……本当は、女の子になりたいんだ。
でも、それは自分自身を裏切ること。
男子陸上部キャプテンとしての自分を否定すること。
だからこの気持ちは、誰にも言えない。
◆
女装姿でSNSをぼんやり眺めていたとき、ふと目に留まった広告があった。
『1ヵ月で理想のボディラインに――性別矯正下着』
……なんだこれ。
詐欺くさいコピーに思わず笑ってしまう。
でも、スクロールする指が止まらない。
「毎日着けるだけ」「女性ホルモン不要」「自然に女体化します」
どの言葉も、まるで俺の奥底を見透かしているみたいだった。
(どうせ、詐欺商品だろ……)
それでも、気づいたら購入ボタンを押していた。
届くのが、少しだけ楽しみになっている自分がいた。
数日後。
真っ白な箱を開けると、甘い花のような香りがふわっと立ち上がる。
中には、鮮やかな黄色のブラとショーツ。
薄く光沢のある素材は、触れるだけで“すべすべ”と滑らかだった。
「……ほら、やっぱりただの下着だ」
それでも試しにブラをつける。
カップが胸に“きゅっ”と密着し、背中でホックを止めると、
一瞬、熱がじんわりと広がった。
(……なにこれ、ちょっと……あったかい?)
肌の奥に溶け込むような感覚。
サテンが呼吸しているみたいに、体温を吸い込んでいく。
そのままショーツを履くと、柔らかく包み込まれるような圧。
軽く腰を動かすと、生地が“さらり”と擦れて甘い音を立てた。
胸のあたりがほんのり熱くて、呼吸が浅くなる。
下着の香りが鼻をくすぐり、頭がぼうっとする。
鏡を見る。
ブラに押し上げられた胸元が、いつもよりふっくらして見えた。
まるで、ほんの少しだけ“女の子”になれたような気がした。
◆
着けはじめて5日目。
毎朝のように、胸がちくりと痛むようになった。
シャワーを浴びると、肌がつるつるしていて驚く。
(え……これ、本当に効いてるのか?)
「……まさか、ね」
笑いながらも、心臓がほんの少しだけ大きく鼓動する。
恐怖よりも、奇妙な快感が勝っていた。
さすがに学校に着けていく事はできないが、取説によると毎日の着用は必須らしい。
夜、再び“それ”を着ける。
胸のカップを直した指先に、微かな鼓動が伝わる。
吸い込まれるように、体が熱を帯びていく。
サテンの当たりがやけに心地よくて、外したくなくなる。
◆
着用から10日目、制服のシャツを着ようとした時に気が付いた。
いつもより胸元の生地が張っている。
乳房がほんの少しだけ盛り上がっている。
「……ウソだろ……」
笑いながら、震える手で鏡を見る。
そこに映っていたのは、見慣れた自分なのに――
どこか“違う”自分だった。
頬が薄く紅潮していて、目元がやわらかい。
まるで、女の子みたいな顔。
胸を押さえる。
やわらかい。確かに、存在している。
気のせいなんかじゃない。
息を飲んだまま、しばらく動けなかった。
怖いのに、どこか嬉しい。
罪悪感と快感が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
鏡の中で、俺はそっと微笑んだ。
その笑顔が、あまりにも自然で――
「俺……戻らなくても、いいかもな」
呟いた声は、昨日よりも少しだけ高く響いた。
【2章へつづく…】
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